わたしたちは、いつも主と共にいるであろう。 第一テサロニケ4・17
キリスト者にとって、この地上に働いている間も、神にあって生きているということほど貴重な思いはありません。そして大いなる日が来る時に、−その時は問題ではありません。神がわたしの主であるからです−わたしはあがなわれます。しかもこの慰めはキリスト者だけが持っているものです。
偉大な力をもってこられ、あらゆる死者と悪魔ですら目ざめさせるこのさばき主は、キリスト者の兄弟であり、父であり、後見人であります。キリストがその友であり兄弟であるわたしたちを招き、わたしたちのうちにその賜物と聖霊をごらんになる時、それはなんという言い表わせない喜びでしょうか。それは死者にとって喜ばしい出来事です。生まれつきの性質にとっては、そのような神々しい主権者を見ることはおそろしいことですが、霊は喜びをもってこの主権者をあおぎます。そしてこの慰めを持たない人は、だれでも悪魔によって苦しめられます。すべての人がこのことを心にとめ、それに従って行動できることが望まれます。だれも隠れ場を見いだすことはできないからです。たとえ、水中、地下、千ひろの深さにかくれても、よみの淵にかくれていても、すべてはあらわれてこなければなりません。キリストがさばき主となるとき、すべてのものは明るみに出されるのです。
1525年の説教から