良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 ルカ8・15
主は、「正しい良い心」と言っておられます。いばらもあざみもない広々とした平坦な土地のように、この世の食物に対する心配と貪欲から解放された心は、純潔で、広く、ひらかれており、みことばがはいってゆく余地があります。
ですから、まことのキリスト者が非常に少ないといって驚く必要は少しもないわけです。なぜなら、かならずしも全部の種が良い地に落ちるわけではないからです。ただ四番目のグループの種だけであって、キリスト者であることを誇り、福音の教えをたたえているからといって全部が全部そうであるとはいえません。キリストご自身が叫んで、こう言っておられます、「聞く耳のある者は聞くがよい」。それは、「なんとまことのキリスト者は少ないことであろうか」と言っておられるかのようです。たしかに、キリスト者と呼ばれ、福音を聞くすべての人を信用することはできないのです。それ以上のものが必要なのです。
そこで、多くの人々が軽蔑しているといって悩む必要がなぜあるでしょうか。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないとさだめられているのではないでしょうか。忍耐をもって実を結ぶ良い地のために、いくらかの種は道ばたに落ち、いくらかは岩の上に、いくらかはいばらの中に落ちなければなりませんでした。しかし、神のみことばはけっしてむなしく帰らないのであって、主がここで、種をまいた人の種のいくらかは良い地に落ちたとおっしゃったように、かならず良い地を見つけます。福音のあるところには、キリスト者があるのです、「わが口から出る言葉は、むなしくわたしに帰らない」。
1525年の説教から