「わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」 ヨハネ10・14−15
羊たちが恥と苦しみと死と侮辱とあざけりにおおいつくされ、葬られ、しかもなお自分自身のすがたを知らないような状態にある時、彼らを知り、認めてくれる人はだれでしょうか。それは、ただキリストだけです。主は、世とわたしたちの血と肉を迷いに導くすべてのものにかかわらず、なおもその小羊たちを知り、外から見ればしばしば彼らを忘れ捨て去られたように見える時も、決して忘れたり、捨てさられることがないというこの慰めのことばを語ってくださいました。 そしてこの真実をよりたしかにわたしたちの心に知らせるために、「父がわたしを知っておられるのと同じように」とおっしゃいました。父なる神がその愛するひとり子を知られるのは実に深く鋭い知識です。キリストがみすぼらしい乞食の子のように馬小屋に横たわり、ただご自分の民に知られなかっただけでなく、侮辱され、捨てられた時にも、父は知っておられました。
主が神と全世界によってのろわれ、人民をせん動したもっともおそろしい神を汚した者として、ふたりの殺人犯の間に、はだかにされ、恥と不名誉のかぎりをつくして空中にかけられ、そのため大きな悩みのうちに「わが神、わが神、なぜわたしを捨てられたのですか」と叫ばれた時にも、父は知っておられました。
ここでも主は、「父はわたしを知っておられる」とおっしゃっております。それは、(このような恥と、苦しみと、はずかしめの中にあっても)、羊たちを救いあがなうために魂を注ぎ出し、犠牲となるために神からおくられた愛するひとり子として父が知っておられるという意味です。また、イエスの側からいえば、恥と十字架と死を通して、父は、命と永遠の栄光のうちにわたしを導いてくださることを知っているという意味です。
ヨハネ福音書10・12−16の講解