そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 ローマ11・33
わたしたちあわれでみじめな人間は、みことばと力あるみわざによって確証してくださった神のご命令と働きの一端もまだ理解できず、信仰によって神の約束の光も把握できないのに、なぜ神の性質について思いめぐらして頭を痛めるのでしょうか。
わたしたちが窮めることもできず、測り知ることもできない神のみこころについて、教えなければならないことは事実ですが、しかし、これを理解する責任を負うとすればそれは、全く危険であって、そのためにわたしたちはつまずいて首をおることになるでしょう。わたしはいつも主キリストがペテロに言われたことばによって自分を抑制し、導かれるようにしております。「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。ペテロも神のみわざについて考えめぐらし、論じ、主がどのように他の人を扱われるか、すなわち、ヨハネにどんなことが起こるであろうかを尋ねたのです。また、ピリボが、「わたしたちに父を示してください」と尋ねた時にどのように答えられたでしょうか(ヨハネ14・8−10)。「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしを見た者は、父を見たのである」。ピリボも父のみいつと臨在を見たいとしきりに願ったからです。これらすべてのかくされた神のさばきをわたしたちが知ったとしても、今、与えられている神のご命令と約束以上に、なにか益があり役に立つことがあるでしょうか。
これらすべてをこえて、神の約束と、戒めによるみわざのうちに信仰を実践しましょう。
卓上語録