「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」 ルカ14・27
わたしたちは、自分の苦しみや十字架をいさおとみなしたり、救いを得るための手段として考えてはなりませんが、しかし、キリストに似るものとなるために、キリストの苦しみに従わなければなりません。福音書の中で多くの場所に示されているように、神は、わたしたちが十字架にかけられたキリストを信じるだけでなく、キリストとともに苦しみ、ともに十字架につけられるように定められました。
それゆえ、それぞれのキリスト者は、聖なる十字架の一部を負わなければなりません。それは絶対です。パウロは、「キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」(コロサイ1・24)と言っております。ちょうどこのように言っているようです。主のからだにつながるキリスト者の数は完全に満ちていないと。そこで、わたしたちもまた、あとに続き、キリストの苦しみに少しも欠けたところがないようにし、すべてが成就され集められて、ひとつになるようにしなければなりません。それゆえ、キリスト者である人は、すべて自分の十字架が来ると考えなければなりません。
そこで、名誉、財産、身体、いのちなどを危険にさらすならば、たしかにきぴしく傷つく十字架にちがいありません。このような苦しみはたしかに損害を与えます。もしそうでなければ苦しみではありません。
しかし、この真理を知っているならば、それはずっと軽く容易になります。そして次のように言って慰めを得ることができます。もしわたしがキリスト者であるならば、それにふさわしい服装をしなければならない。愛するイエス・キリストの法廷に出るためにお命じになる服装はただひとつ。苦しみという服装である、と。
受難と十字架についての説教