「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである」 ヨハネ16・8−9
すべての人は、自分の行為のために危険のうちにあります。そして、もし人が滅びたら、それは自分の罪過のためです。彼がアダムの子孫であるからとか、前に不信仰であったからというのではなく、わたしたちの罪とさばきを滅ぽしてくださった救い主キリストをうけいれることをこばんだがゆえに、彼は滅びに定められた罪人になります。しかし、わたしが信じないから、罪とさばきはわたしの上にとどまります。それはわたしを救うことのできるただひとりの主によりすがらないからです。実際、この尊い救い主によってなされたあがないをうけいれず、わたしを助けようと尋ね求めておられる主を信じないならば、罪とさばきは2倍の重さ、きぴしさになります。
このようにして、わたしたちが救われるか滅びるかということは、わたしたちがキリストを信じているかどうかということにかかっています。信仰はあらゆる罪を滅ぼしますが、不信仰はあらゆる罪をとどめますから、罪のゆるしを見いだすことができません。それゆえ信仰からはなれては、すべては罪であり、罪の中にとどまります。人間のなすことのできる最善の生活、最良のわざでもそうです。それら自体は賞賛すべきことであり、神に命ぜられたことですらありますが、しかし不信仰によって、腐ったものになり、神を喜ばせることができません。一方、信仰者のあらゆるわざと行為は信仰によってなされていますから主を喜ばせます。要約すれば、キリストから離れては、すべては罪にさだめられ、滅びます。反対に、キリストとともにある時は、すベては益であり、祝福されております。それゆえ、(アダムから生まれた肉と血の中になおもとどまっている)罪ですらも、わたしたちに危害と罪のさばきをもたらすことはできません。
ヨハネ福音書16章の講解