主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。 詩篇94・12
わたしたちが苦しむことは、ぜひ必要なことです。それは、神がそのことを通して悪魔に対するほまれと大能と力を示されるために必要であるばかりでなく、苦しみと悩みのうちに与えられるのでなければ、わたしたちの持っている偉大なすばらしい宝が、かえって、平穏のうちにわたしたちを眠らせ、いびきをかかせるからです。残念なことには、多くの人々が聖なる福音を乱用し、福音によるあらゆる義務から解放され、もはや、なすことも、与えることも、苦しむ必要もないかのごとき態度でおります。これは罪であり、恥ずかしいことです。
神がこのような悪を訂正される方法は、ただひとつ、十字架を通ることです。この訓練を通して、わたしたちの信仰は深められ、強められます。そして魂のうちに、よりいっそう深く、救い主を引き寄せます。食物と飲み物がなければ成長できない以上に、苦しみと試練がなければ強く成長することができません。
それゆえ、十字架をまぬかれるよりも、十字架を与えられる方が益となるのですから、だれも十字架に直面して、たじろいだり、おそれてはなりません。その中に慰めを得る、すばらしく強い約束を与えられているではありませんか。わたしたちが喜んで苦しみ、十字架を負う時にのみ、福音はわたしたちを通して前進します。
受難と十字架についての説教