「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである」 ヨハネ16・8、10
キリスト者が神の前に立ち、義とされ、罪のゆるしと永遠の命を受けるための義は、キリストが父のみもとに行かれた義以外にはありません。すなわち、主がご自分の上にわたしたちの罪を負い、わたしたちのために十字架の上に死の苦しみを受け、葬られ、よみに下られたことです。しかし、主は罪と死とよみの下におかれることなく、復活と昇天により、これらに打ち勝ち、今や、父の右に全被造物の全能の主として座しておられるのです。
この義は、この世と理性に隠されているだけではなく、聖徒たちの目にも隠されています。それは、わたしたちのうちにある思想とか、ことばとか、行為ではなく、わたしたちの外と上にある義だからです。それは、キリストが父のみもとに行かれることであって、わたしたちの目や感覚の領域外にありますから、わたしたちは見ることも感じることもできません。それは、この義について宣教されたみことばを信じることによってのみ、認めることができます。すなわち、主ご自身がわたしたちの義であって、わたしたちはわたしたちに栄光を帰せず、ただ主キリストにのみ栄光を帰さなければならないという真理です。
ヨハネ福音書16章の講解