もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるのであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 ローマ6・5−6
これこそまことの使徒のメッセージです。あちこちにしるされている「キリストの死にあずかるパブテスマによって、彼と共に葬られたのである」という表現が、ここでは、「彼に結びついてその死の様にひとしくなる」と言われています。このようにパウロは、キリストの死と復活を、洗礼と結びつけています。それによって、洗礼がたんなるしるしであると考えられることを避け、キリストの死と復活の力をそこに含ませるためです。しかもこれによって、わたしたちのうちにも死と復活が起こるためです。わたしたちの罪がもはやわたしたちのうちに生きず、死んでしまい、しかも、永遠に死ぬために、罪は主の死によって滅ぼされ、取り去られているのです。
このようにして、洗礼においてわたしたちが水の中に沈められることは、わたしたちもキリストのうちに死ぬことを意味します。また、水から再び現われることは、主が死のうちにとどまられず、再びよみがえられたように、わたしたちも主にあって新しい生命を与えられることを意味します。しかしこのような生命は、罪の中の生命ではありえません。罪はわたしたちのうちにすでに滅ぼされ、わたしたちはすでに罪に死んでいるからです。それは義ときよさの新生命でなければなりません。こうして、わたしたちは、「キリストに結びついて」、「キリストとひとつとされた」者と呼ばれます。いわばひとつのパンにやかれたようなもので、わたしたちのうちに主の死と復活の力を受け、またその実、すなわち、その結果がわたしたちのうちにあらわれます。それは、わたしたちがキリストにあって洗礼を受けているからです。
三位一体後第六主日の説教