するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」 ルカ2・49
ここでイエスが、わたしは自分の父の家におり、自分の父の仕事をしていると、おっしゃっているのはどういう意味でしょうか。すべての被造物は、イエスの父のものではないのでしょうか。たしかにそうです。しかし、神はそれらのものを人間の益になるために、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちがこの地上の生活において、それらをすべ治めるためです。ところが、神はただひとつのものを、ご自分の手もとにとどめておかれました。それは主の聖なるみことばです。そして、宮は主の聖所、または、聖なるすみかと呼ばれました。そこで、みことばが開かれ、ご自分をあらわすようにされたからです。
主は、みことばの宣教から離れては、わたしたちの友人、知人、その他のいかなるものの中にも見いだされることをお望みになりません。この世のものとなることを望まれないからです。 キリストは、父の家以外では見いだせないことをご存知ですか。あなたであっても、だれであっても、人間のうちには見いだされません。また人間の持つものの中にも見いだされません。これが、キリストの母とヨセフが悲嘆にくれた理由です。イエスをいくら捜しても、骨折りと悲しみばかりで、むなしくあちこち歩き回り、知恵や、考えや、希望はなんの役にもたたず、すべては絶望だと考えました。彼らは正しい方法でイエスを捜さなかったからです。彼らは、肉と血がのぞむままに、捜しました。ここではすべてが放棄されなければなりません。友人も、知人も、エルサレムの全市も、あらゆる熟練も、人の知恵も、人間に属するすべては、むなしいのです。父の家でキリストを必ず見いだすことができ、その時、心は再び喜びでいっぱいになります。心の慰めを得る道はほかにはありません。
顕現節第一主日の説教