「主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがなわれた」 ルカ1・68
最初の降臨の時、神は火と煙と雷を伴った無情な濃い黒雲の中にこられました。ラッパの大きな音はあまりにもおそろしく、イスラエルの子らは、おそれに満たされてモーセに言いました(出エジプト20・19)「主が語られたすべてのことにわたしたちは聞き従います。しかし、あなたがわたしたちに語ってください。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。この時、神は律法を彼らに授けられました。律法は無情なものです。わたしたちはそれに聞くことを好みません。律法はわたしたちの理性にあまりにもおそろしいので、ときには、わたしたちは突如として絶望に陥ります。あまりにも重い重荷であるので、良心はどこで転換し、どのようにしてよいかわかりません。
ところが、キリストの来臨はそのようにおそろしいものではなく、柔和なものです。旧約の神のようにおそろしくなく、人のように柔和であわれみに満ちています。主は山の上にこられるのではなく、町にこられます。シナイ山ではおそろしさとともにこられました。今は柔和さとともにこられます。シナイ山ではおそれられるかたであり、雷といなずまを伴ってこられました。今は讃美を伴ってこられます。シナイ山ではラッパの大きな音とともにこられました。今は、エルサレムの都のために泣きつつこられます。シナイ山ではおそれとともにこられました。今では、慰めと、喜びと、愛とをもってこられます。シナイ山では、「山に触れる者は必ず殺される」とおっしゃいました。今では、「シオンの娘に告げよ。彼女の王は彼女の所に来る」とおっしゃいます。ここに律法と福音の相違があります。すなわち、律法は命じ、福音はすべてのものを惜しみなく与えます。律法は怒りと嫌悪をきたらせ、福音は恵みを与えます。
福音は語ります、「あなたの罪はゆるされた。ゆきなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
棕梠主日の説教