「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった」 ルカ18・10
この愚かなパリサイ人について考えてみましょう。彼はすばらしいわざを行ないました。まず神に感謝しています。それから、神の栄光をあらわすために週に二回断食しました。この世の富の十分の一をささげました。姦淫の罪を犯しませんでした。だれにも暴力をふるったこともなければ、盗んだこともありません。彼はこのように聖徒らしい生活を送りました。これは実にすばらしい名誉ある生活ではないでしょうか。世の判断に従えば、だれも彼を非難することはできません。この世は確かに彼をほめたたえるでしょうし、また、彼は自分で自分をほめたたえました。しかし実にその瞬間、神のさばきは彼の上にくだされ、彼のすべてのわざは神をけがすものであると宣告されました。主なる神よ、あわれんでください。このさばきはなんとおそろしいことでしょうか。わたしたちは全く激しい衝撃をうけます。わたしたちのひとりとしてこのパリサイ人の半分のきよさにも及ばないからです。
ここで神のつるぎがいかに深く切りこみ、魂の奥底にいかに深く突きささっているか注目してください。ここにおいてすべては滅びのうちにおかれ、地に打ち倒され、魂は神の前に生きることができません。こうして、この問題にふれる時、信仰深い女も地に倒れ、極悪の娼婦の足、いや、かかとに接吻しなければならないのです。
取税人も立ち、自分を低くしました。彼は断食とか、働きとかについてなにも言っておりません。しかも主は彼の罪は偽善者ほど大きくないとおっしゃっています。このとるに足らない罪人以上に自分を高くしないよう、わたしたちも気をつけようではありませんか。もしわたしが兄弟よりも指一本の幅でも自分を高くするならば、わたしは極悪の罪人よりも低く投げ捨てられるでしょう。
1522年の説教から