しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。 ガラテヤ4・4
律法はわたしたちに義認も信仰も与えることができず、生まれつきの性質による労苦も、わたしたちに何ひとつ与えることができません。それゆえ、パウロは今、わたしたちの身代わりとなって、わたしたちのために信仰をかちとってくださった義認の主であるキリストをのべ伝えるのです。そして義認は、安易にわたしたちに与えられるのでなく、非常な代価、すなわち、神ご自身のみ子によって買いとられたものでした。これがパウロの「時の満ちるに及んで」ということばの意味であって、わたしたちのなわめの時が終わりに来た時をさします。
ユダヤ人にとっては、肉によるキリストの来臨とともに、時は満ちました。それと同じように、今日においても、わたしたちが信仰により光に照らされ、律法のもとにある奴隷と労苦の生活が終わりになる時はいつでも、わたしたちの日常生活のうちに時が満ちているのです。キリストの肉による降臨も、信仰の霊的降臨がわたしたちのうちに起こらなければ、無益であるからです。たしかに、主は霊による降臨をもたらすために、肉によりこられたのです。キリスト来臨の以前においても、以後においても、肉によってこられる主を信じたすべての人に主はこられました。それゆえ、このような信仰により、昔の父祖たちにとって、キリストは現実のものとされたのでした。
世のはじめから終わりに至るまで、あらゆるものはこの肉による降臨に、寄り頼まなければなりません。これに寄り頼む信仰が働くとき、いつでも、どこででも、だれでも、人はなわめからとき放たれます。永遠の昔から降臨を約束され、今こられたかたとしてキリストを信じはじめるとき、だれでもその人にとって、時は満ちたのです。
聖降誕後第1主日の説教