永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 ヘブル9・14
ふたつの祭司職があります。ひとつは古い祭司職です。これは身の飾り、家、犠牲のそなえもの、ゆるしなど、からだに属するすべてを含む肉体的祭司職です。これにたいして新しい祭司職は霊の飾り、霊の家、霊の犠牲のそなえもの、その他いっさいこれに属するものを含む霊の祭司職です。キリストが祭司のわざをなし、ご自分を十字架上にささげられた時、この世の宝石や金銀で身を飾らず、神の愛と、知恵と、忍耐と、従順と、その他もろもろの徳で飾られたからです。それらは神だけがごらんになり、御霊が照り輝かすものです。それは霊的な飾りだからです。
それゆえ、キリストの血と肉は、普通の肉体的な事柄と同じように目に見ることはできましたが、それが犠牲のそなえものであり、キリストがささげられたということは同じように見ることはできないのでした。それはアロンが犠牲をささげた時と様子が違っておりました。アロンの時には、子牛、雄羊、鳥、パンなどの材料があっただけでなく、アロンが犠牲のそなえものをささげているのだということは民の目に明らかでした。これに反して、キリストは、ご自分の心のうちで、神の前にご自分をささげられたのであって、だれも見ることはできず、気もつきませんでした。それゆえ、主の肉体的な肉と血は霊的なそなえものです。
同様に、キリストの教会、幕屋、家も、霊的です。それらは天にあります。すなわち、神の前にあります。キリストが十字架にかかられたのは、宮の中ではなく、神のみ前であるからです。そして、キリストはきょうもなおその神の前におられます。また、祭壇は霊的な意味で十字架であります。だれでも十字架の木は見ることができても、それがキリストの祭壇であることを知らなかったからです。このようにして、主の祈り、流された血、香、すべては霊的です。
1525年の説教から