「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します』」 ルカ18・11
ここでパリサイ人が律法の他の面を踏みにじり、仲間に対して怒っている様子を見てみましょう。彼のうちにキリスト者の愛は全然なく、隣人のほまれと救いに関する思いやりとか愛は全く見られません。彼は仲間を言語道断なやりかたで扱い、足下に踏みにじり、人間を遇するにふさわしい仕方で尊重しませんでした。仲間を救い助けて、不正や悪の苦しみを、受けないようにしてやらなければならないときに、彼自身が仲間に向かって最大の悪事をなしたのでした。兄弟が神に対して罪を犯しているのを知り認めているときに、どうしたら彼を回心させ、神の怒りとさばきから救い出し、それによって彼を変えてしまうことができるかを考えなかったからです。彼の心のうちにはあわれな罪人のみじめさと不幸に対して全然あわれみも同情も見られないのです、彼の心は取税人がみじめさとさばきの中におかれるのを全く当然のこととしているのです。彼は取税人に対する愛と奉仕のつとめからいっさい手を引いております。
このような人が神の国のために、いったいどんな奉仕ができるというのでしょうか。神にむかって、全世界が罪を犯し、不従順であるのを見て喜び、快感を覚える人です。反対に、だれかの心が神に向かい、戒めを守ろうとするのを見ると悲しむ人です。兄弟を少しでも助けたくない人です。そのような可能性すらもきらう人です。兄弟を悪や滅びから守ってやろうとしない人です。このように隣人の救いを願わないほどまでに邪悪になった心の持ち主から、いったい何を望み、期待することができるでしょうか。
三位一体後第11主日の説教