また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 マタイ18・5−6
たとえ、他になんのよいわざがなくても、両親は、子供によって永遠の祝福を得ることができます。もし、子供を神のまことの奉仕へと育てることができれば、彼らの手はよいわざであふれています。うえ、かわき、裸でいる人、獄にいる人、病人、旅人とは、ここであなた自身の子供の魂以外のなにものでしょうか(マタイ25・35−36)。彼らのためにこそ、神はあなたの家を病院とし、あなたを一家の主人とさだめられたのです。それは、あなたが、よいことばと働きによって、子供たちの世話をし、食べさせ、かわきをいやし、それによって、彼らが神にたより、神を信じ、神をおそれ、神のうちに望みをおくことを学ぶためです。また、み名をほめたたえ、誓ったり、のろったりせず、勤勉で、神を礼拝し、みことばを聞くことを学ぶためです。また、この世の王を軽べつし、不幸がきても柔和のうちに耐え忍び、死をおそれず、この世を愛さないことを学んでゆくためです。このような両親のいる所は、なんと祝福された家庭であり、結婚生活でしょう。これこそ、まことの教会、かくれた修道院、そして、天国のすがたをうつしたものではありませんか。
その反対に、両親がこれらのことを教えることを怠っている場合、家庭の子供たちを通して、よみへふさわしいものとされることほど容易なことはありません。もし、断食や、祈りや、聖地旅行や、よきわざの実践によって死のふちへと進んでゆくとすれば、どこに救いがあるでしょうか。さばきの日に神が尋ねられるのは、これらの行為でなく、彼らに与え、ゆだねられた子供たちをどうしたかと問われるのです。
善きわざについて