この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 ヘブル4・15
悪魔がわたしを試みるとき、わたしの心は慰められ、わたしの信仰は強められます。それは、わたしが、わたしのために悪魔にうち勝ってくださった主を知っているからであり、また、主がわたしの助け、また、慰めとして来てくださるということを知っているからです。このようにして、信仰は悪魔にうち勝ちます。それゆえ、神はまず信仰について教えられ、わたしの救いのためにキリストが悪魔にうち勝ってくださったということを知らせます。このようにして、悪魔がわたしにたいしてなんの力も持たず、信仰によって征服せられていることを知る時、試錬を受ける準備はととのったのです。そして、このことを通して、わたしの信仰が強められ、隣人はわたしが試錬にうちかったのを見て、もはんを与えられ、慰められます。
信仰がはじまる時、試錬もすぐはじまるということに注目してください。聖霊はあなたがたをけっして平穏無事の中に放っておかれず、すぐ試錬の中に放り込まれます。なぜでしょうか。それはあなたの信仰が堅くされるためです。そうでなければ、悪魔はわたしたちをもみがらのように吹き払うでしょう。しかし、神がこられて、わたしたちに重量を加え、わたしたちを重くされると、悪魔にも全人類にも、神の力が働いていることがわかります。このようにして神はわたしたちの弱さの中に栄光と大能をあらわされます。それゆえ、神は荒野にわたしたちを投げだし、あらゆる被造物にすてられて、なんの助けも見いだせないところまで投げ倒されます。ついには、神ご自身さえも全く捨てられたのではないかと思うほどです。それはけっしておだやかで平坦な道ではありません。わたしたちの心は、無力にされなければならないのです。
1523年の説教から