キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 ガラテヤ3・13
いったいだれが、十字架につまずくのでしょうか。いったいだれが、このような死を恥ずべきものと考えるでしょうか。いったいだれが、み子をくださった神に感謝しないでしょうか。神のみ子はのろいの木にかかり、わたしたちの罪のために、わたしたちが受くべきのろいをご自分に負われたのです。神を憎み、神によって、恥と、悩みと、悲しみにおちるにまかされた人がありますが、主はちょうどそのようなのろわれた人となって、木にかかられました。(パウロが言っているように)これらすべてはわたしのため、また、あなたがたのために起こったのであり、それによってわたしたちが救いに至るためなのです。目に見るところによらず、神のことばの語るところに従って、正しくこの真理を判別してください。外からみると、わたしたちの主キリストの死は恥ずべき死であって、神ご自身が言っておられるように、のろいの死であります。主が死なれた木はのろわれ、よみの運命にさだめられております。それはなぜでしょうか。わたしたちすべてのものの罪がそこにかかっているからです。木はのろわれています。そこにかけられた人ものろわれています。主がそこにかけられるに至った原因ものろわれています。それは、罪にはのろいが伴うからであり、主の上に罪が積もれば積もるほど、のろいも大きくなるからです。しかし、これこそわたしたちの救いのための死であります。この死がわたしたちからのろいを取り去り、わたしたちのために神の祝福をえてくださったのです。
1545年の説教から