このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。 第1ヨハネ5・6
こうしてキリストの赤い無実の血がその中に見られるように、洗礼にはいつも血がまぜられます。人の目には、すきとおった色のない水が見えるだけです。たしかにそのとおりですが、ヨハネはわたしたちが信仰による内的で霊的な目を開き、それによって水だけでなく、わたしたちの主イエス・キリストの血も認めるようにのぞんでいるのです。
それはなぜでしょうか。それは主がわたしたちの罪のあがないをなさった時、わたしたちのために流された血によって洗礼をかちとってくださったからです。この血といさおしと力を、主は洗礼につけ加え、わたしたちがこれを受け取れるようにしてくださったのです。もし人が信仰のうちに洗礼を受けとるならば、それは人々の見ている所でキリストの血に洗われ、罪からきよめられるようなものです。わたしたちは自分のわざによらず、神の子の死とその流された血により、罪のゆるしを得るからです。このようなゆるしが、聖なる洗礼の礼典のうちに含まれています。
1540年の説教から