主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。 第二テモテ2・24−25
もしあなたがたが、ほんとうに柔和であるならば、あなたがたの心は敵にふりかかるわざわいを見て悲しみます。そのような人は確かに神の子であり、世継ぎであり、キリストの兄弟です。キリストは聖なる十字架上でわたしたちに対して同じような態度をとってくださいました。ですから信仰の深い裁判官は、悪人に判決を下さねばならないとき、心の痛みをおぽえます。法律により被告に死刑の宣告を下さねばならないとき、悲しみます。しかし事実は外観と違うのです。表面は怒りときぴしさでいっぱいのように見えているからです。しかし柔和は根本的な善であって、このような怒りの行為の背後にすらも、かくれて存在し、義務によって怒りときぴしさが求められる場合にも、心は悲しみでいっばいになっています。
ここで注意しておかなければならないことは、わたしたちの柔和は、神のほまれや命令と矛盾してはならないことです。罪がはぴこるままに見のがすことは政府にとって正しくないことであり、わたしたちはそれに対して黙っていてはなりません。それはわたしたちの財産、名誉、損失を考えてのことではありません。何かこれらのものに危害が加えられるおそれがあるから、怒るのでもありません。それは神の名誉と命令を守るためです。また、わたしたちの隣人が受ける損失や不正を救済しなければならないからです。そのため政府は剣をもって、他の人々はことばと刑罰をもってのぞむのですが、しかも、つねにこのような刑罰に値する人々に対して、悲しみの心でみたされているのです。
善きわざについての説教