彼はその見たところ、聞いたところをあかししている。 ヨハネ3・32
キリストのなすべきみわざは何でしたか。それはあかしをなさることでした。キリストがあのような弱さの中を歩み、ただ、あかしの上にしっかりとみ国を建てようとなさるならば、宣教し、語る以外になにかなさることがあるでしょうか。キリストが兵士でなく、(手のひらほどの)土地も、部下も持たれないならば、いったい何をなさるのですか。宣教のみ。そうです。
救い主がシーザーのようにやってこられないのが神のみこころであるとすれば、いったいそれはどうしてでしょうか。それは人々にほまれを与えて、キリストが彼らと同じような権威に飾られて、こられたと言われないためです。キリストはなんの飾りもなく、ただ、のべ伝えられます。それは言うに言われぬ知恵であり、力であり、知恵と知識の宝庫であり、主を信じる人はだれでも永遠に生きるのです。しかし、だれがそれを見ますか。いや、あなたがたは見なくてもよいのです。主の支配と宣教はあかしです。それは、律法の書や、世の中のどこかで、聞くことも、見ることも、読むこともありえないことについてのあかしの宣教です。あかしすることとは、聞き手が見たことのないものを語るということです。裁判官は自分の見たことについてさばくのでなく、証人から聞くのです。しかし、ここでキリストは人の見ないことについて宣教し、あかししなければなりません。このようにして、あらゆる人のはるか上におられる天の父についてのあかし人となっておられます。キリストはのべ伝えられるだけであり、その宣教は父についてのあかしです。父がどのような性質をお持ちになっているか、どのようにして人を祝福し、罪と、死と、悪魔の力からあがなおうと望んでおられるかをあかしされます。これがキリストのあかしです。キリストはご自分を低くして人となられ、死に、死よりよみがえって、おっしゃいます、「あなたのあかしはこれである」。そこで、あなたがたがこれらのみわざとあかしを信じるならば、神のあかしを信じているのです。
ヨハネ福音書3章の講解