そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 ヨハネ2・6
ユダヤ人が儀式的なきよめをするための六つの石がめは、旧約聖書のならわしに従ったもので、それは、律法と戒めによって、外面的にのみユダヤ人をきよめました。ですから、福音記者ヨハネは、かめが、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、おいてあったと言っております。このことばによってヨハネは次のように言いたかったのでしょう。これは、信仰なしのわざによるきよめを意味しており、心はきよめない。それどころか、もっと汚すものである。
さて、水が酒に変えられたということは、律法の理解が和らげられたことを意味します。すなわち、福音が来る前には、律法はわざを求めるものとして理解され、わたしたちはわざによって律法を成しとげると考えていたのです。このような理解からは、当然、石ががめよりもかたい、がんこな、高慢な偽善者が生まれてきます。また、不安な良心が生じます。しかし、福音は、わたしたちがやれる以上のことを求める律法の形を変えてしまいます。律法を成しとげるには、わたしたちと違った人間であることが必要だったのです。しかし、今や、律法はキリストを求め、キリストをさし示し、キリストの方へと追いやるようになります。それによって、わたしたちが、キリストの恵みを通し、まず、信仰によって、キリストや他のキリスト者に似るものにつくりかえられ、それから、まことのよいわざをするのです。このように、恵みの福音はやってきて、水をぶどう酒に変えます。そして、この時、律法は貴重なものとなり、美味となります。律法は、突然、深く、高く、きよく、まことによいものとなり、永遠にたたえられ、愛せられるようになります。なぜなら、このようにすばらしいものを要求しているからです。こうして、以前には、困難であり、全く、不可能であったことが、いまや、容易で、楽しいものとなります。
顕現節第二主日の説教