「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」 ルカ21・27
ここで、力とは、キリストとともにさばきにやってくる天使と、聖徒と、すべての被造物の大軍であると考えることもできます。また、キリストの第一の来臨が弱さと貧しさのうちに目立たなかったのに対して、第二の来臨は、力において印象的であるということを表現しているのかもしれません。さらに、「主がおいでになる」と言われておらず、「人々は主がおいでになるのを見る」と言われていることです。肉による誕生のうちにおいでになったとき、だれも主を認めませんでした。また、主は信じるすべての人の心のうちに、福音を通して、毎日、霊的な方法でおいでになっておりますが、だれも主を認めません。しかしこの来臨は公になされ、だれもそれを見ないわけにはゆきません。「すべての人の目は、彼を仰ぎ見るであろう」(黙示1・7)と言われているとおりです。しかも、このかたは、マリヤから生まれ、地上を歩まれたとおりの肉体をもった人の子キリスト・イエスにほかならないということを認めるのです。
もしそうでなければ、キリストは、「彼らはわたしを見るであろう」とおっしゃって、わざわざ肉体的な姿を明らかに示す表現を使われなかったにちがいありません。しかし、「人々は人の子を見る」とおっしゃったからには、肉体的な再臨を意味しておられることが明らかです。肉の目が肉体をとった姿を見るのであって、しかもその姿は大いなる力に満ち、天使の軍勢とあらゆる天の栄光に囲まれております。キリストは輝く雲に乗り、すべての聖徒たちがいっしょにやってきます。聖書はこの日について多く語っており、あらゆるものはここに向けられております。
1522年の説教から