「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」 ヨハネ7・17
人間イエスの言われたことを聞き、そのみことばに耳を傾けるのが父のみこころです。みことばに対しては、賢くあって、それを征服し、それについて議論しようとすべきではなく、単純に聞くべきです。その時、聖霊がくだって、あなたの心を動かし、みことばを信じ、心の底から、「これは神のみことばであり、まことの真理である」と叫ばせ、あなたの人生をそれにかけるようにしてくださいます。反対に、もし自分自身が聞かれることを望み、自分の理性によってみことばを消そうとし、またもし、みことばを自分の思想に従わせ、その中に偽りの教えをまぜ、どのようにしてみことばを理解し、量り、まげようかとほじくり回し、こずき回し、それによって自分の気に入るようにみことばが響くようにしようとするならば、またもし、なにか疑っているかのようにみことばを考察し、自分の思いにしたがってみことばを判断しようとするならば、このような態度はみことばを聞いて弟子となることではなく、その主人となることです。
このような場合には、みことばを理解して、「これこそ神のみことばである」と告白できるようにはけっしてなりません。それゆえ、あなたの理性を封じこみ、あなたの知恵を足下に踏みつけ、救いの問題で、考えたり、感じたり、手探りで捜し求めるためにこれらを使用せず、ただ神の子のことばにのみ耳を傾けて、そこに立ちどまりなさい。聞け、聞け、これが命令です。これこそ、わたしたちの主なる神のみこころを忠実に行なうことであります。主は、だれでもみ子に聞く者は聖霊を受け、光に照らされて、それが神のみことばであると正しく理解できるようになると約束されました。神はその人をみこころにかなう人につくりかえられます。これこそ、主の働きです。
ヨハネ福音書6−8章の説教