ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている」 ヨハネ8・48−49
ここでキリストは、何をなさったでしょうか。主はその生涯をはずかしめのうちに忍び、黙ってそれに耐えられました。しかし、主はその教えを弁護されたのです。なぜなら、教えはわたしたちのものではなく、神のものであるからです。そして神はけがすことのできないおかただからです。そこではもはや忍耐することはやみ、わたしの持っているすべてをかけてそのために戦い、彼らがわたしを攻撃するすべてを耐え忍びます。それは神のみことばの栄光が、汚されないためです。たとえどんなに小さいことであっても、わたしはそのために死にます。しかしもし神のことばが滅びたり、沈黙したりしたままにまかせるなら、わたしは神と全世界に害を及ぼしていることになります。
ですから、わたしたちは、彼らがわたしたちのいのちをおびやかす時に、それに耐え、憎しみに対するに愛をもってし、悪に対するに善をもってするのです。しかし、彼らが福音を攻撃する時には、神の名誉を攻撃しているのです。その場合、愛と忍耐はやみ、もはやわたしたちは沈黙していません。公然と声をあげて叫ぶのです、「わたしはわたしの父をうやまっている。それゆえ、あなたはわたしをうやまわない。しかしわたしはあなたがわたしをうやまわないようにと願わない。なぜならわたしも自分自身のほまれを求めないからである。父は父のほまれのみを求めず、わたしのほまれも求めていらっしやる。わたしが父のほまれを求めているからである。『わたしをうやまう者たちをわたしもうやまう』とおっしゃっているとおりである」
これこそわたしたちの慰めであり、たとえ全世界がわたしたちの上に恥と侮辱を加えても、喜んでおれる源です。
1525年の説教から