わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。 第二コリント5・1
このからだは、土か粘土で造られた魂の幕屋にすぎず、古い衣のようなものであるとパウロは言っております。しかし魂はすでに信仰によって新しい永遠の天的な生命のうちにあり、死ぬことも葬られることもありませんから、今やこのみすぼらしい幕屋も同じように新しく朽ちないものにされる日を待ち望むだけです。わたしたちの更に良い部分はすでに天にあり、わたしたちの肉だけ地上に残しておくことはできないからです。そして「よみがえり」と呼ばれるかたは、死と墓からよみがえられておりますから、「信仰告白」をし、主にすがる人もまたそれに従うのです。主はわたしたちが従うようにと、わたしたちの前を歩まれ、また、主がわたしたちのうちに、わざをはじめてくださいましたので、主のみことばと洗礼により、わたしたちも日ごとに主にあってよみがえります。
もしあなたが信仰によりみことばを受け取るならば、死を通して復活を望み、生命についての純粋な思想と姿を理解することのできる、違った目を与えられます。もしわたしが、自分の理性によって、見たり理解することを判断するならば、滅びます。しかしわたしは、信仰の教えにしたがって、目で見、感覚で感じるよりもさらに高い理性を持っています。それは、「よみがえりたまえり」というみことば、ご自分のためでなく、わたしたちのために、「主はよみがえられた」というみことばが確実であるからです。それによって主のよみがえりはわたしたちのものとなり、わたしたちも主にあってよみがえり、死と墓のうちにとどまることなく、主とともに、からだのうちに永遠のイースターを祝うことができるようになるのです。
1533年の説教から