すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」 マタイ15・27−28
この女の信仰は実にりっばなものではありませんか。彼女はキリストご自身のことばによって、キリストをとらえたのです。主は彼女を犬になぞらえました。ところが彼女はそれをそのまま認め、主が、犬ならばどこまで世話することができようか、といわれたその限界までお願いすることで満足したのです。主はとらえられました。どんな犬でも食卓の下のパンくずは食べることができます。それは当然の権利です。それゆえ、主は彼女に心をかけられ、願いどおりにしてやりました。そこで、彼女はもはや犬でなく、イスラエルの子となったのです。
この物語が聖書にしるされているのは、神が恵みをどれほど深く隠されているかを明らかにし、わたしたちを慰めるためです。そして、わたしたちの主に対する感情や思いによって主を判断するのではなく、みことばによって主を判断するためです。ここでキリストのすがたはきびしく見えますが、彼女に対する「否」ということばによって決して最終的なさばきをなさったわけではありません。主の答えが「否」とひびいても、決してそれは「否」でなく、不定であるということです。
わたしたちの心が「否」以外のなにも聞かなくても、それは「否」そのものではないのです。それゆえ、あなたの心からいっさいの疑い、不安のおもいを取り去り、しっかりとみことばに信頼し、「否」の上でも、下でもよいから、深く隠されている「しかり」をつかみとりなさい。女がキリストの正義を堅く信じて実行したように、それにたよりなさい。その時、あなたはみことばによって、主をとらえ、勝利を得ます。
1525年の説教から