わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。 第一テモテ1・8−9
律法の用い方を正しく理解するためには、人を二部に分け、両者を明確に区分しなければなりません。パウロが分けたように、古い人と、新しい人に分けるのです。そして、新しい人は律法によって、全然わずらわされないようにしておきなさい。一方、古い人は、たえず律法によって拍車をかけ、決して安心させてはなりません。このようにすれば、律法を正しく用いていることになります。新しい人は、わざによって助けられることができません。もっと高いもの、すなわち、キリストを必要とします。キリストは、律法でもわざでもなく、純粋な神の恵みといつくしみから出た贈りものであり、プレゼントです。信仰により、キリストがあなたの心のうちにやどられる時、神はあなたを聖徒とします。しかし、修道院にはいるとか、特別の職業につくなど、なにか自分自身の行為によって神に受けいれられるものとなりたいと願うのは、律法を正しく用いることに失敗し、キリストを否定することです。キリストは、なんらあなたのわざなしに、助けたいと望んでおられます。もし、自分のわざで自分を助けたいと願うならば、あなたがたは律法をあまりにも高く、あまりにも遠く遂行しなければならないことになります。この場合、キリストのみがやどり、支配されるべきあなたの心からキリストを追い出して、そのかわりに、律法とあなた自身のわざをおくことになります。
そこで、新しい人は、心にキリストとあらゆる天上の恵みをたずさえ、天地にあるすべて必要なものを与えられ、欠けるものがありません。
テモテ第一の手紙1・8−11の説教