死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえる。 第一コリント15・42
農夫が畑で種をまいているのを見てみましょう。彼は土に穀粒を投じ、それは完全に失われたかのように見えます。しかし農夫はむだなことをしたかどうかについて心配しません。彼は全く忘れてしまうほどです。それがどのようになっていくか、虫が食べてはいないか、また、何かの理由で消えてしまわないかと心配しません。反対に、イースターか聖霊降臨節のころになると、美しい茎が出て、自分がまいたよりも、もっと多くの穂や穀物が実ることを知っています。今、彼にそのことについて質問すれば次のように答えるでしょう、「はい、わたしは種を無益に投げ捨てたのではないことを知っていました。穀物が土の中で滅んでしまうためでなく、土の中で腐ることにより、他の形をとり、ゆたかに実を結ぶようになるために、それをしたことを知っておりました」。これが種まく人とそれを見ている人が考える考え方です。
わたしたちはキリストが死からよみがえられた真理から、次のことを学ぶべきです(この真理は理性によって把握することも、理解することもできません)。すなわち、わたしたちは目の見えるところにしたがって判断しないのです。わたしたちのからだが葬られ、焼かれ、また、なにかの方法でちりに帰しても、それだけで判断するのでなく、神がそれをどのように扱われ、どのように形造られるか、そのすべてを神にゆだねるのです。なぜなら、もしわたしたちが目で見ることができれば、もはや信仰は必要でなく、神がその知恵と力において、人間の知恵と理解にまさられることを証明することはできなくなるからです。神は冬の間、わたしたちが地中にうめられ、腐るままにさせておかれますが、それは夏になって太陽よりも輝いた姿で現われてくるためです。ちょうど墓がもはや墓でなく、美しい花園となり、そこに植えられた美しいばらやりんどうが、美しい夏を通じて青々と茂り、花をいっぱい咲かせるのと同じです。
1533年の説教から