「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」 ヨハネ4・34
キリストをつかわされた神のみこころは、キリストご自身の従順以外の何物でもありません。パウロも、「彼はわたしたちのために従順であられた」と言っております。この神のみこころによってわたしたちすべてはきよめられます。「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ5章)。「キリストはおのれを低くして、死に至るまで従順であられた」
このように主がなされたのは、わたしたちにその価値やいさおがあるからではありません(だれもキリストからそのような奉仕をいただく価値はないのです)。ただ父に従順であったために、主はこれらをなされました。こうして、パウロはひとことで天国の門をあけ放ち、わたしたちに父なる神の愛と、口に言いあらわせない恵み深いみこころを示してくれました。それによって、わたしたちは、世のはじめから、わたしたちのためのキリストの犠牲がどれほど神によろこばれるものであったかということを感じるようになります。
この真理を見て、だれか喜びに心が溶けないものがあるでしょうか。だれか、愛し、讃美し、感謝しないものがあるでしょうか。だれか、喜んで全世界のしもべとならないでしょうか。そうなっても、彼が、神の近くに愛されるものとしており、み子の従順のうちに、豊かに示し、注がれた父のみこころを認める時、他のことはすべてとるに足らないのです。
1525年の説教から