「それがきたら、義について、世の人の目を開くであろう。わたしが父のみもとに行くからである」 ヨハネ16・8、10
わざもいさおしもなく、ただ信仰によってのみ、人は神に和解せられ、きよめられるという根本真理は、かたく守って、決してゆるがせにすることはできまぜん。パウロもローマ人に言っております(3・21−22)、「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現された」と。こうしたことばをわたしたちはかたく信じ、よりたのみ、動かされてはなりません。それは罪のゆるしと義認とが、わざなしに信仰によってのみ与えられることを宣言しているからです。
キリストがマタイ福音書に語っておられるたとえを考えてみてください(7・17)。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぷ」。このたとえから、良い木をつくるのは実でないことがわかります。実がなくても、木は良くなければなりませんし、また、良い実がなる前に、良い木をつくらねばならないのです。
このことから、良い行ないなしに人がきよめられなければならないことは、疑いをいれない真理であり、また、良い行ないができる前にきよめられなければならないことも真理です。
それゆえ、人を聖徒とし、良くするために、その人が良いことができる前に、あらゆる善行よりも偉大で貴重ななにかがなければならないことが、決定的にわかります。それは、人が健全な働きをする前に、まず、からだが健全でなければならないのと同じです。この偉大で貴重なものとは、尊い神のことばであって、福音のうちに、キリストにあって神の恵みをわたしたちに宣べ伝え、提供します。それを聞いて信じる人はだれでもそれによって聖徒とされ、義人とされます。それゆえ、このみことばは、生命と、恵みのことば、ゆるしのことばと呼ばれます。しかし、このことばを聞かず、信じない人は、他の方法では決してきよめられることがありません。
不義の富についての説教