なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。 ローマ6・14
これこそ、わたしたちが学ばなければならない中心的な真理です。このみことばは、わたしたちに権威を与えます。たとえわたしたちの肉に情欲を感じ、また、罪におちいることがあるとしても、「それでもなお、律法からのがれることはわたしの願いであり、もはや、律法と罪の下にはなく、信仰をもった義人である」と確言するのです。このように言えないとすれば、絶望し、滅びなければなりません。律法はいつも、「あなたは罪人である」と語ります。それにたいして、「しかり」と言えば、滅びます。もし、「否」というならば、律法を拒絶し、「否」を持続するために、立つべき堅固な根拠をもたなければなりません。しかし、罪の中に生まれたということは、聖書によって確証され、それが真理であるのに、どうして「否」と言えるでしょうか。どこに、その根拠を見いだすのですか、それは決して、わたしのうちにあるのでなく、キリストのうちにあります。キリストから確証をいただいて、それを律法の前に投げ出して、言います「見よ、キリストはあらゆる律法にたいして『否』、ということがおできになる。そういう権威をおもちになっている。なぜなら、罪から、まったく、自由であり、純潔なかたであるからだ。そして、キリストは、ご自身の『否』、をわたしにくださった。それゆえ、わたしは罪人であり、律法の前に立つことができず、わたしの中に純潔らしさをなにひとつもたず、神の怒りを招くばかりであるから、自分自身を見る時には『しかり』、と言わざるをえないけれども、それでもなお、キリストの義がわたしの義であり、それゆえ、罪から自由とされているということができる」。このように常に言うことができるのが、わたしたちの目標であります。キリストご自身がおっしゃっており、それがすべて信仰によって働く時、わたしたちは純潔な信仰者とされています。
1525年の説教から