よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。 詩篇145・15
ここで神が、麦を成長させてくださることを学ばねばなりません。それゆえに、わたしたちは神を讃美し、神に感謝します。わたしたちが飲食のために必要とする麦、ぶどう、その他あらゆる果実を成長させるのはわたしたちの働きではなく、神のたまものであり、祝福であることを認めなければなりません。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と主の祈りを祈ることはその証拠です。「お与えください」ということばによって、わたしたちはそれが神のたまものであり、わたしたちの造るものでないことを告白します。もし神が「与えて」くださらないならば、穀物は実らず、わたしたちの耕作もむなしいでしょう。種が全部、士の中で悪くなったり、凍ったり、腐ったり、虫に食われたり、洪水で流されたりする場合、それはなんと速かにくることでしょうか。また、やっと育っても、暑さや、ひょうや、寒さにやられたり、かぶと虫やその他の動物に食われてしまうことが、どれほど多いことでしょうか。しかも刈り入れる時ですらも、だれかに持って行かれたり、虫に食われたりする危険があるのです。
ですから、わたしたちが麦畑を見る時は、神のいつくしみだけを思わず、神の力を思いめぐらしつつ、このように考えなければなりません。「ああ、わが愛する穀物よ。神がその豊かないつくしみと深いあわれみにより、なんと豊かにおまえをわたしたちに下さることか。また、お前がまかれてから、食卓にのぼるまで、神はどれほどの力でお前を守られたことだろうか」
敬虔な信仰を持つ心は、わたしたちの耕作や、種まきや、その他の働きが、神のいつくしみによって支えられなければ、空しいことをよく知っています。わたしたちは熱心に仕事をして、土から食物を求めなければなりませんが、だからと言って、自分の働きに信頼をおくようなことがあってはなりません。神の祝福と、神の力ある保護が成長には不可欠なのです。
詩篇147篇の講解