このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。 マタイ20・16
この聖句は、神の前に自分はいちばん偉いと思う人たちについて言っていますから、高位高官の人に向けて語られているのであり、もっともりっぱな人をうち、最高の聖者をおぴやかすものです。キリストが直弟子たちに向かって言われたのも、このような理由からです。というのは、世の中で軽蔑され、弱く貧しく見える人が、心の中ではひそかに自分自身に満足し、自分こそ神の前にいちばんだと考えることが、しばしば、あるからです。このような場合にも彼はあとになります。他方、おそれと絶望の心でもって、自分の金銭や、名誉を軽んじる人があります。そして神の前にもっとも小さい者であると考えています。このような場合、彼は先になります。
最高の聖徒と言われる人たちが、このようなおそれにうたれたことはよく知られていることです。また、霊的に高い地位についていた人がたくさん堕落したのもよく知られた事実です。サウルがどのようにして堕落したかよく考えて見てください。また、神がどのようにダビデを堕落するままにさせられたでしょうか。
実にこれこそ、福音の本質のひとつです。どんなひとでも、もはや、自分がいちばん低いものにされるおそれはないと言いきれるほど高くのぼった人もありませんし、また、のぼることもできません。また反対に、いちばん高くされる望みがなくなるほど低く落ちた人もありませんし、また、そこまで低く落ちることもできません。なぜなら、そこでは、あらゆる人間の功績は無価値であり、神のあわれみのみがたたえられ、「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」と明確に宣告されているからです。「先の者はあとになる」ということばは、神があなたがたのすべての誇りをおとりになるという意味であり、「あとの者は先になる」ということばは、神があなたがたのあらゆる絶望をとり去ってくださるという意味です。
1525年の説教から