わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 第一ヨハネ5・14
さてこの場合、主を祈りに導いた悩みは、この世的な肉体的悩みでした。わたしたちもからだに関する問題では、わたしたちの思いを神にゆだねなければなりません。パウロも言っているように、わたしたちはどのように祈ってよいか知らないからです。神がわたしたちを十字架のもとにおき、悩みに取り囲ませるのがいちばん必要である場合がしばしばあります。神のみが、最善でもっとも必要なことをご存知ですから、主のみ旨をわたしたちの思いの前におき、わたしたちの従順を忍耐のうちに証拠だてなければなりません。
しかし、この世の益でなく、永遠の益に関係する場合、すなわち、神がみことばによりわたしたちを守り、きよめ、わたしたちの罪を許し、聖霊と永遠のいのちを与えてくださることについては、神のみ旨は確かで明らかです。主はすべての人の救われることを望んでおられます。すべての人が罪を認めて、キリストによって、罪の許しを信じることを望んでおられます。それゆえ、このような場合には、「わたしの思いではなく、あなたのみこころがなりますように」と祈る必要はありません。神はこれを喜び、かならずなしてくださることを知り、信じなければなりません。なぜなら、今ここに、このようなことについてのみ旨を啓示するみことばが目の前におかれているからです。
1545年の説教から