彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 ローマ3・23−24
罪がどれはど大きく、また、重くても、このみことばの真理はそれよりも更に大きく、高く、広いのです。それはだれも自分の知恵によってこの真理を語った人はなく、この真理を確立した人もなく、ただ、天地を創造され支えられている主が確立し、語られたからです。わたしの罪もわたしの聖徒らしさもこの地上に残されねばなりません。それらはこの地上の生活と行為に関係するからです。しかし、天上においては、これにはるかにまさる違った宝があります。そこではキリストがわたしをそのみ腕の中にかかえ、みつばさの下におおい、あわれみのかげにかくしてくださって、座しておられるのです。
そこであなたは問うでしょう。わたしは毎日、罪を感じ、良心によって責められ、神の怒りを受けねばならないのに、どうしてそんなことがありうるでしょうかと。その答えはこうです。あなたがどのように考え、また想像しようとも、キリスト者の義認とは、罪のゆるしにほかならないことを学ばねばなりません。それは罪と、あらゆる怒りを取り去る圧倒的な恵みのみをとり扱う国、または主権を意味します。
わたしたちがどれほど人間的な正義を推進しようとも、わたしたちは神の前にまったく罪人であり、またわたしたちのうちには、罪以外のなにもありませんから、それは罪のゆるしと呼ばれるのです。主が罪について語られる時、そこにはたしかに現実の重大な罪が存在します。同じように、ゆるしもたんなる冗談ではなく現実の重大事です。それゆえ、このみことばの真理を見るとき、二つの事がわかります。ひとつは、あなたがたが地上においてどれほど信心深くても、罪はあなたがたのすべてのきよさを奪ってしまうということです。第二に、ゆるしは、すべての罪と怒りを無にしますから、あなたがたの罪はあなたがたをよみに投げ入れることができないということです。
1528年の説教から