そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。 第二テサロニケ1・4
まずここで、パウロはテサロニケにある彼の教会をほめております。そして、さらにいっそう成長するようにとすすめ、パウロが他の諸教会に、福音の宣教と理解がどのように実を結ぶかということの模範とし、見本として示せるようにと訴えております。また、パウロはキリストのまことの教会の建物と発展が、なにに存しているかを示しております。それから(彼らの苦しみと忍耐について)彼らを慰めております。それは主キリストが彼らのあがないのために栄光のうちにおいでになり、彼らの悲しみを安息と喜びとによってむくい、彼らを迫害した者たちを永遠に罰せられるということによります。
こうして、キリスト者の苦しみはいつまでもつづくはずはありません。キリスト者が永遠に苦しみ、死に、死のうちにとどまることは、神のみこころであるはずがありません。神はみことばによって、神をおそれ、信頼し、神によって大きな約束を与えられた聖徒たちの神となる、とあかしされているからです。それゆえ、神の目的は違った贈り物を与えることにほかならず、それゆえにこそ、キリスト者が地上で苦しむことをお許しになるのです。すなわち、それぞれにふさわしい報酬を与えるという神のみこころが啓示されるためです。それゆえ、キリスト者の苦しみと、この世の邪悪、暴虐、怒り、聖徒たちの迫害は、どちらもきたるべき今ひとつの生命と、神の最後のさばきがあるというひとつのあかしにほかならないのです。このさばきを通してあらゆる人は、善人も悪人も、それぞれにふさわしいむくいを永遠にたえず受けるのです。
三位一体後第26主日の説教