「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」 ヨハネ14・20
キリストが父におられることは、まずなによりも重要な真理です。このかたが語り、なされたことは、天上ではすべてのみ使いたちの前で、地上ではあらゆる暴君たちの前で、よみではあらゆる悪魔の前で、そして、心ではあらゆる悪い良心とわがままな思いの前で語られ、なされなければならないということをだれも疑う者はないということです。もし、わたしがキリストのことばと、思いと、みむねが、父のみむねであると確信しているならば、あらゆる怒りと悪にたいして勇敢でありうるからです。キリストのうちに、わたしは父の心とみ旨をもっているからです。そしてもし、あなたがたがこの真理を認めるならば、あなたがたはキリストが父におり、父がキリストにおることを認め、怒りと、死と、よみは見ず、純粋な恵みと、あわれみと、天国と、いのちを見ることになります。
今ひとつの意味はこうです。あなたがたがこの真理を知り、体験すると、あなたがたは次の方法でわたしがあなたがたの救い主であるということをいよいよ知るようになる。すなわち、あなたの存在、あなたに欠けているもの、あなたが死のふちで罪にさだめられた罪人であるさま、これらすべてはわたしのうちにあり、そこにおかれている。しかし一方、わたしのうちにあるものはすべて純粋な正義と、いのちと、祝福である。さて今、あなたがたは信仰によってわたしにおるものとなった。しかもあなたがたのあらゆる悲しみと、罪と、死をもってきたのである。そこで、あなたがた自身は罪人であるけれども、わたしにあって義とされている。あなたがた自身は死をもっているが、わたしにあっていのちをもっている。あなたがた自身のうちには平和がないが、わたしのうちに平和をもっている。あなたがた自身は罪に定められているが、わたしにあって救われ、祝福されている。
ヨハネ福音書14章の講解