もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 ローマ8・17
キリストと苦難をともにしていますから、わたしたちはキリストの兄弟であり、共同の相続人であると、パウロは言っております。彼はこのような苦難の中にあるキリスト者を慰めはじめております。彼は自分もこれまで試錬を受け、かたい確信に到達した人であるかのように語ります。彼はきたるべき世は澄んだ目で見ることができるけれども、この世はぼんやりと、色ガラスでしか見ることのできない人であるかのように話します。
パウロがどのようにしてこの世に背を向け、きたるべき啓示に目を向けているかに注目してください。彼は地上のどこにも悲しみや苦難を認めることはできず、ただ、喜びだけを見ているかのようです。実際、わたしたちが苦しまなければならないときに、やがてわたしたちのうちにあらわされる言うに言えぬ喜びと栄光とにくらべると、わたしたちの苦しみはいったいなんでしょうか。そのような喜びにはくらべることもできませんし、苦しみと呼ぶことさえできないほどです。ただひとつのむずかしさは、わたしたちが待ち望んでいる大きなすばらしい栄光を目で見ることができず、手でふれることができないということです。その栄光とは、わたしたちがいつまでも死ぬことがなく、飢えかわくこともなく、苦しんだり、病気になることのないからだを天において与えられることなどです。だれでもこの意味を心に把握できる人は、このように言うでしょう、わたしが十回も焼かれたり、溺死しなければならないとしても(そのようなことは実際は不可能ですが)、きたるべき生命の栄光にくらべれば数えるに足りない。この地上の生命がどれほど長いとしても、永遠の生命にくらべれば、ものの数ではありません。それは苦しみと呼ぶ値打ちもなければ、なにかのいさおしと考えることもできません。
1535年の説教から