すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。 第一ヨハネ1・3
父が、まことの神、まことの人として、さだめ、任じられたわたしたちの主キリストは、次のようなかたです。それは、キリストは、めぐみと、まことと、正義の流れ出るまことの泉であり、みなもとであり、それによって、わたしたちも主からめぐみとまことをいただいて喜び、主によって、めぐみにめぐみを、まことにまことを加えられるからです。福音記者ヨハネは言っております。「わたしたちが目で見たかた、耳で聞いたかた、手でさわったかた。そのみことばと行為により、わたしたちは、このかたがいのちのことばであり、すべてのまこととめぐみの、口で言いあらわせない泉であることをみとめた」。もしこの泉にあずかりたいならば、それが、アブラハムであれ、モーセであれ、エリヤであれ、イザヤであれ、パブテスマのヨハネであれ、だれでも、このかたのところにゆき、このかたから直接うけとらなければなりません。ほかのだれであっても、だめであって、その場合、永遠に滅びてしまうのです。福音記者ヨハネが言っているように、わたしたちはだれでも、「主のみちみちた徳から、めぐみにめぐみを、まことにまことをいただいた」からです。このように、全聖書は、はじめからおわりまで、キリストのみをさし示し、わたしたちの心をキリストに導くのであって、この点に関しては、他の聖徒たちについてはひとことも語られておりません。それはわたしたちが、彼らのうちにめぐみとまことを捜し求めないためです。もし、めぐみとまことを得た人があるならば、それを得させたのは、キリストのみちみちた徳以外にありません。わたしたちのものは、ごく僅少のものですら、それに役立たないのです。
ヨハネ福音書1章の講解