わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 ローマ8・24
このことばは、もっとも深いところにある情熱として、ただしく理解しなければなりません。愛する対象を慕う心から生じる希望は、その実現がおくれることによって、愛の焔をいよいよ燃やすからです。そして愛する対象とそれを慕う愛が、熱烈な希望により、いわば、ひとつになるのです。こうして愛は、愛そうとしている人を愛しているものの中にとけこませ、希望は希望をもっている人を、望んでいる事柄の中へ投げこみます。しかし、望んでいる事柄を見ることはできません。こうして希望は人をまだ知らないかくされたもの、すなわち内的暗黒の中に投げこみます。それによって、望んでいる事柄を知ることはできませんが、望んでいない事柄を知っております。こうして魂は同時に望みとなり、また、望んでいる事柄となります。それはまだ見ていない事柄、すなわち、希望の中に住んでいるからです。もし、希望を見ることができたとしたら、すなわち、望んでいる人と、望んでいる事柄が互いに知りあうとすれば、そのとき、望んでいる人は望んでいる事柄の中にとけこんでいないことになります。すなわち、もはや、希望と知られない事柄の中に投入されていないのです。反対に、見えるものに強力にひかれ、知っている事柄の実を楽しもうとするでしょう。
ローマ人への手紙講解