キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 第一ペテロ2・21
あなたがたの心が、刑罰に対するおそれからではなく、愛から、罪に反対するようになり、キリストにある確信を強められるとき、キリストの苦しみはあなたの全生涯の模範となり、苦しみに対する見方が違ってきます。もし、病気や苦痛が囲んでも、キリストのいばらの冠と釘とくらべればなんでもありません。もしあなたが、なにかしたくないことをさせられたり、やめたくないことをやめなければならなくなったら、キリストが捕えられ、縛られ、あちこち引き回された様子を思い浮べてください。もし高慢が起こってきたら、主はどろぼうといっしょにあざけられ、侮辱せられたすがたをごらんなさい。情欲と不貞が身のうちに燃えてきたら、キリストの純潔なからだが縛られ、刺され、むち打たれた激しさを思うべきです。憎しみやしっとが起きたり、復讐を求める時は、キリストがはかり知れない涙とため息でもって、どれほどあなたや、すべての主の敵のために祈ってくださったかを思うべきです。この場合、キリストは復讐しようとすれば十分の理由があったのにそれをしなかったのです。そしてもし、肉的、霊的を問わず何かの悩み苦しみがあなたを悲しませるならば、次のように言って、心を強くしなさい、「わたしの主がゲツセマネの園でおそれと苦悶によって血の汗を流されたのに、わたしがいささかのわざわいを受けないことがあろうか」。「主人が死の苦しみの中に戦っているのに、なまけものの貧弱なしもべが床の中で安楽に安らいでいることがあろうか」
キリストの聖なる受難についての瞑想