われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 イザヤ53・6
兄弟たちよ。わたしたちが自分が自分を養い、自分で自分を治め、自分であやまりから守り、自分のいさおで恵みと罪のゆるしを得ることができるとすれば、全聖書はうそをついていることになります。聖書は、わたしたちすべてが失われ、散らされ、傷つけられた弱い無防備の羊であるとあかししているからです。その時わたしたちは、わたしたちをたずね求め、一か所に集め、わたしたちを導き、傷を包み、わたしたちを世話し、悪魔にたいしてわたしたちを強めてくださる羊飼いとしてのキリストを必要としないことになります。その場合、主がわたしたちのために命を捨ててくださったことは、むなしいことになります。わたしたち自身の力と信心深さで、これらすべてを得ることができるならば、キリストの助けは必要ないからです。
しかしこのイザヤ書のことばは全く正反対のことを言っています。すなわち、あなたがたは失われた羊であり、自分では羊飼いの所まで道を見つけることができないということです。あなたがた自身で迷うことはできます。そして羊飼いキリストがあなたがたを捜し求め、引き戻してくださらなければ、あなたがたはそのまま狼のえじきになるでしょう。しかし今や、主はこられ、あなたがたを捜し求め、あなたがたを見いだし、あなたがたを群れに引き戻してくださいます。すなわち、みことばと聖礼典によりキリスト教会に引き戻し、その命をあなたがたのために与え、もはや今後あやまった道に迷わないように、正しい道に守ってくださいます。そこでは、あなたがたの力と、よいわざと、いさおしが、失われた無防備の状態で迷い出ていることを意味する以外には、あなたがたの力と、よいわざと、いさおしについてはなにも聞かないでしょう。そこではキリストだけが働き、価値があり、その力を現わされます。主があなたがたを捜し求め、まもり、導かれます。主はその死によりあなたがたのために命を獲得してくださいました。
詩篇23篇の講解