「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである」 マタイ6・3−4
パウロは、ローマ12章や、その他に、同じようなすすめをしています、「慈善をする者は快く慈善をすべきである」。快く慈善をするとは、人が感謝しようとしまいと、そういうことには関係なく、また、名誉や、好意や、感謝や、報酬を求めず、心のままにおしみなく与えることです。それは神が人の感謝の態度とか、忘恩の態度にかかわりなく、日ごとに太陽を照らし、光を与えてくださるのと同じです。報酬を望まず、求めず、ただ、神のみこころとほまれを考えるのが惜しみのない心です。
それゆえ、世は恥ずべき状態にあります。悪しき状態であろうと、敬虔な状態であろうと、どちらも間違っております。それは悪をなす公の悪魔であるか、それとも善きわざをなす神ご自身でありたいと願っているからです。そしてどちらも持続することができません。キリスト者でないかぎり、だれも善いわざをすることができません。人間としてなす場合は、神のほまれのためでなく、自分のほまれと喜びのためにするからです。また、神のほまれのためにする様子をしても、それは悪の香りのするいつわりであります。
ここに隠れてする施しがあります。それは表面にあらわれず、ほまれや名誉を求めず、人々に見られたり、ほめたたえられたりすることに関係なく、惜しみなく施しをする心です。感謝をされようとされまいと、損得に関係なく、すべてを神にゆだねて、心を動かされることのない心のすなおさの下に、あなたの施しを隠しなさい。
マタイ福音書5−7章の説教