主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる。 詩篇138・6
ここに描かれている神の姿は、いかに特徴的なことでしょうか。神は見おろされるかたとして、まことの性質をわたしたちに知らせておられるのです。神は見上げられることがありません。神の上にはなにもないからです。神は横を見回すことができません。ご自分にならぶものはなにもないからです。ですから、神はご自分の下を見おろされるだけです。それゆえ、あなたの居る場所が、低く、いやしくなればなるほど、あなたをごらんになる神のまなざしは、いよいよ輝きます。
ひとことでいえば、この聖句は、神が、低くいやしめられたものを見おろされるという表現から、神の本性を正しくわたしたちに教えているということができます。神が低いものを見おろされることを知っている人は、神を正しく知っている人です。このような知識から、神の愛と、神にたいする信仰が湧き出て、それにより、よろこんで自分を神にゆだね、神に従うようになります。
まことに謙そんな人は、謙そんの結果を考えません。ただ、くだけた心をもって、ひたすら低いものをみつめ、よろこんでそれとともに生活し、自分自身の謙そんには気がつきません。しかし、偽善者は自分たちのほまれが、なぜいつまでも途中でぐずついているか疑います。そして、彼らのかくれたいつわりの誇りは、謙そんの道に満足しません。彼らのおもいは、ひそかに高く高くあがってゆきます。それゆえ、まことに謙そんな魂は、自分の謙そんに気づかないのです。もしそれを知れば、自分のうちにある気高い徳に気づいて高ぶることになるでしょう。彼のおもいと心と感覚のすべては、低いものにすがりついています。目の前にあるのは、いつもそれだけだからです。低いものは、彼とともにある表象であって、それを目で見ている間、彼は自分自身にそれをつけることもできないし、一方では、自分の姿に気づくこともできないのです。
1523年の説教から