イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったことを思い、・・・・手ぬぐいをとって・・・・弟子たちの足を洗い始められた。 ヨハネ13・3−5
イエスが立ち上がり、弟子たちの足を洗い始める前に、主の心にどのような思いがあったかを示そうとして、ここにヨハネは実に偉大なことばを記録しました。ここで、主は苦しみについて考えられたのでもなければ、足を洗った直後に続く悲しみに心を痛めておられたわけでもありません。主は永遠から父とともにされた栄光について考えておられたのです。そこへ、この世の生涯を終えて、かえってゆき、永遠にとどまられるのです。こうした高い思想にいたる時、主は、とうぜん、世から離れ、人間のことなど考えられなかったとしても、不思議ではありません。しかし、このように永遠の栄光について思いめぐらしておられる時、主は立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、水をたらいに入れられたのです。
主の思いと、主の行動が、どれほど調和しているかよく考えてください。主はこのように考えられました。わたしは万物の神であり、主である。悪魔も最大の悪事を一日足らずしかできないであろう。それから、悪魔とわたしのすべての敵はわたしの足の下に踏みつけられ、わたしを信じる者たちは平和のうちにとどまるであろう。このように考えながら、それと同時になさる主の行為はどうでしょうか。主の主は、奴隷としもべのすることをなさったのです。弟子たちの足を洗われたのです。このようにして、主はわたしたちに模範を残されました。主がご自分の栄光をかたわらにおき、それを忘れ、ご自分の誇り、力、輝きのために乱用されず、しもべたちの益のためにお用いになったとすれば、当然、わたしたちも同じようにすべきです。わたしたちは、わたしたちに与えられたたまものを決して誇らず、高慢の手段として乱用することなく、むしろ、力の許すかぎり、隣人のためにこれを用いなければなりません。
洗足木曜日の説教