「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」 マタイ20・28
このイエスのすがたを、見て、愛しましょう。神の子が、どれほど貧弱でみじめであざけられた人であっても、あらゆる人の罪を負い、しもべとしてこられたことほど驚くべき奉仕となわめのすがたはありません。もし偉大な王の息子がこじきの小屋にはいり、看病してやり、汚れを洗ってやり、普通ならば乞食のしなければならないことを全部するとすれば、それはなんという驚くべきことでしょうか。全世界も驚きのあまり、口と、鼻と、耳と、目を大きくあけたままで、十分これについて考えることも語ることもできますまい。そんなことがあれば、とほうもないけんそんのわざであります。
それゆえ、これについてつねに、歌い、語り、のべ伝え、この恵み深い贈り物にたいして神を讃美し、愛する十分の理由があります。そして、この真理の意味はなんでしょうか。それは、神の子がわたしのしもべとなり、身を低くして、わたしの悩みと罪を負ってくださるまでに至られたということです。主は、全世界の罪と死をご自分の上に負い、こうおっしゃいます。「あなたはもはや罪人ではない。わたし、わたし自身があなたの身代わりになったのだ。あなたは罪を犯さなかった。わたしなのだ。全世界は罪の中にある。しかし、あなたは罪の中にない。そして、わたしが罪の中にある。あなたのすべての罪はわたしの上にあり、あなたの上にはない」
だれもこの真理を理解することはできません。わたしたちは、きたるべき世において、神の愛を理解し、永遠の至福のうちにそれを見つめるでしょう。
ヨハネ福音書1章の講解