キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならなかった。 ピリピ2・6−7
わたしたちは、まず、この世の神と君と、悪魔と、罪と死から救うことのできる救い主を必要とします。すなわち、永遠の神であり、信じるものはすべてこのかたによって義とされ、祝福される救い主です。それはもしこのかたが、モーセや、エリヤや、イザヤや、バプテスマのヨハネよりもりっぱで偉大なかたでないとすれば、わたしたちのあがない主ではありえないからです。しかし、もしこのかたが、わたしたちを罪からあがないきよめるために、神の子であるのに血を流してくださり、またもし、わたしがこの事実を信じ、悪魔が罪を理由におびやかし悩ましても、悪魔の鼻の下でこの事実にすがりつづけているならば、悪魔はすぐ敗北し、道をゆずり、わたしたちを平安のうちにおいておくしかしかたがなくなります。
次に、わたしたちは、肉と血を同じくするわたしたちの兄弟としての救い主を必要とします。このかたは罪をほかにしてあらゆる点においてわたしたちとひとしくされました。これについては、わたしたちが幼な子のように語り、歌うようにと教えられているところです。それによってわたしは喜びをもってこう言います。わたしは神のひとり子イエス・キリストを信じる。彼は父の右にすわり、わたしのためにとりなしをしてくださり、同時にわたしの血と肉をわけた兄弟となってくださった。わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために、このかたは天からくだり、人となり、罪のために死んでくださったからである。
ヨハネ福音書1章の講解