むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 第1ペテロ1・15−16
わたしはあなたがたの主なる神であり、あなたがたはわたしの民であるから、あなたがたはわたしのようになるべきである。まことの主はその民をしてご自分に似た者とし、主のみこころに従順に従うものとされるからです。そして主なる神は聖なるかたですから、その民も聖なる者となります。それゆえ、わたしたちが信仰をもって歩むとき、すべて聖なる者となります。聖書は、死んだ聖徒についてはあまり多く語らず、今この世に生きている者たちについてよく語っております。そこでダビデも詩篇86篇2節に自分について次のように言っております。「わたしのいのちをお守りください。わたしは聖なる者だからです」
キリスト者である人はだれでも、主の持っておられるものをすべて主と共有します。そこでキリストが聖なるかたであるならば、彼も聖なる者でなければなりません。そうでなければ、彼はキリストが聖なるかたであることを否定していることになります。パウロも、もしあなたがたが洗礼を受けているならば、あなたがたはキリストの聖なるころもを着たのであると言っております。「聖なる」という小さなことばは、あなたがたが神のものであり、神に属し、「聖別されている」ことを意味します。それゆえ、ペテロは言っているのです。「あなたがたは神に自分をささげたのだ。それゆえ、もう一度、世の情欲のうちにまよいこまないように気をつけなさい。ただ神だけがあなたがたを支配し、働かれ、やどってくださるようにしなさい。主が聖なるかたであるように、あなたがたも聖なる者だからである」。
ペテロ第1の手紙講解