「そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」 マタイ7・17
善きわざは、信仰のない人が聖徒となり、救いに入れられるように助けることはできません。反対もまた真理です。あしきわざも、人を悪とし罪に定めることができません。それをするのは不信仰だけです。不信仰が人と木を悪くし、そこで人は、悪い行ないをします。それゆえ、もしわたしたちがきよくなるか、悪くなる場合、それはわざから始まるのではなく、信仰から始まるのです。これについて賢者も次のように言っております(ペン・シラの知恵10・12)。「すべての罪は、神を離れ、神に信頼しないところから始まる」。
キリストもわたしたちがわざから始めないようにと教えられ、「良い木をつくれば良い実がなり、悪い木をつくれば悪い実がなる」と言われました。だれでも良い実を得たいと願う者は木から始め、それをよくせよと言われるのです。それゆえ、よいわざをしたい人はわざから始めずに、わざをなす人から始めなければなりません。しかし信仰によらなければ人は良くなることはできず、また反対に、不信仰によらなければ悪くなることはありません。人の前で聖徒であるか悪人であるかをきめるのはわざである、ということばはまことです。わざが、だれが聖徒であり、だれが悪人であるかを外に知らせるのです。キリストも、「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」と言われています(マタイ7・20)。しかしこれらのわざはすべて外側のあらわれにすぎないのです。
キリスト者の自由